答え合わせ。

竹のカーテンとは。



俗に「南京玉簾(なんきんたますだれ)」と呼ばれるものの別称である。
歴史は古く、約2000年前の中国夏王朝時代から存在したとされる。
(但し、夏王朝の存在自体証明されていないため伝説に近いものと思われる)


もっとも古い記録は「史記」(著・司馬遷)
周の第3代王、康王(紀元前1002年頃〜紀元前993年頃)が王倹城(現在の平壌)へ外征し、その街を占領した際に余興として行われたとある。(史記/列伝/第7巻/第18章「高句麗列伝」)
当時は巨大なものであったようで、「可達土焉処如」「(伸ばすと)地の果てまで届くようだ」とある。
また、一部の表記では通常の状態で1歩(=6尺/約2m)、伸ばした状態では20歩(約40メートル)に達した、とある。
その材質に竹を使っていたことから、この芸は屈強な男性芸人のみに限られていたと推測される。


この康王の外征により、南京玉簾は中国全土に広がり、主に酒宴の余興として長く好まれた。
特に、離れた場所から玉簾を伸ばし、その先から酒を注ぐという芸が流行したようである。(史記より)


しかし、漢王朝(前漢王朝)第2代皇帝恵帝(紀元前210年〜紀元前188年)の側近夏侯嬰(かこうえい)の腕に芸人が玉簾を誤って刺し怪我させたことから、玉簾は一気に廃れる。
また、恵帝もこれを案じ1尺(約30cm)以上の玉簾の製造を禁止した。(「漢書律暦志」)


更に上記にあるようにこの芸を行う者は男性芸人が主であったが、その多くは去勢されるようになった。
これも南京玉簾衰退の一因となったと言える。


その後、小さくなった玉簾は日本に伝えられる。
日本における最も古い記録は「後漢書東夷伝倭人伝」。
当時は埋葬品として使われていたようであるが、竹は腐食が早くその繊維の痕跡でしか知りえない。
但し、雷神山古墳には玉簾がほぼ完全な形で残っている。


日本では中国とは逆に年代を降る程に巨大化が進む。
これは同時に青銅器にも見られる傾向である。
中国本土での使い方とは違い、祭器もしくは埋葬品として神性が高まった結果と考えられる。


飛鳥時代に入ると、南京玉簾は日本でも本来の余興としての姿を復活させる。
南京玉簾を余興として持ち込んだのは鞍作止利(くらつくりのとり)。
法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像完成の際に自らその芸を披露したと日本書紀にある。
これ以降、南京玉簾鎌倉時代に入るまで主に大仏建立の開眼供養で行われるようになる。


一般化していくのは平安時代後期から鎌倉時代である。
それは鎌倉六宗の普及と同時であった。
特に浄土真宗は顕著で玉簾自体を仏具として用いていた。
現在寺院を訪れた際に仏像に御簾がかかっていることがあるのは、このためである。
これは仏像の神聖さを演出するためのものであったという説もある。


江戸時代、富山県で衰退し始めていた浄土真宗を茶化す不届き者が現れ始める。
仏具である玉簾をねじり、伸ばし、仏教を皮肉ったのである。
土着の「きこり節」と合わさり現在の「南京玉簾」に近いものが生まれる。
浄土真宗より江戸幕府へ進上された禁止令の要請書が現在も残っている。(「翁久允文庫」(富山市立図書館蔵))


しかし、そのすぐ後に起こった「ええじゃないか運動」と連動して、大道芸「南京玉簾」は一気に全国へ広まる。
江戸後期から明治初期には3尺(約1m)ほどだった玉簾は戦後に女性芸人も使えるようにとの配慮から小さくなっていく。
現在の形になったのは1950年頃と言われている。


因みに「竹のカーテン」と呼ばれるようになった由来は、1968年にアメリカの大衆雑誌「Life」の中の日本特集で「竹のカーテンで芸をする者たち」と紹介されたことから。





なかなかの大作になったので、改めて日記で書いてみた。
(トータル2時間もかかったよ)
因みに一部嘘が混じってますので、ご注意下さい。
というか、5%ぐらい本当のことが書いてあるのでご注意ください。

てか100文字以内とか自分で言った癖に大分越えてるよ。
受験だったら大失敗。